あの日から一年かぁ
長いようなあっという間なような…
震災当日は仕事をしていた
地震に過敏で速報が聞こえる前に地震に気付いたんだけど、
直ぐに携帯の速報が鳴りだして事務所にいたから
念のためホールに向かったら揺れが強くて立っていられなくなった
少ししたら揺れが弱くなったけど、また揺れが強くなった
ホールは悲鳴とものが倒れたり壊れたりする音で訳が分からなくなってた
着いていた電気がチカチカしながら消えて外から車の衝突音や警報音が聞こえたときは
「日本が終わった」と思ったね
凄く長い時間揺れていたように思う
揺れが収まってスタッフと声を掛け合いながら役割分担
指定避難所は遠かったから職場のとなりにある居酒屋さんの駐車場に一時避難させてもらった
店長さんありがとうございました
半数が認知症または認知面の低下や高次脳機能障害がある人だからか避難することを伝えても地震があったことすらわかっていない
そうこうしている最中でも強い余震が何度もきていた
なんとかかんとか利用さんの避難が終わり、情報収集をしようと携帯のテレビを着けたら石巻の津波の様子が飛び込んできた
アナウンサーが
「若林区荒浜にも津波が…」
と入っていたような気がする
目の前が真っ白になった
息子の保育園が近かったから
荒浜ではないけど、すぐとなりのようなところ
すぐに行きたかったけど、隣にいたスタッフは実家が石巻
ボソッと
「お母さん…」
と言って涙をこらえて震えてた
これからどうしたらいいか本社と連絡が取れず、ただただ時間が過ぎ
地震の混乱だけが携帯のテレビから伝わってきた
そして追い打ちをかけるかのような雪と寒さ
時間は待ってくれず日が沈んでいく
利用さんの家族とは連絡が付かないから
まずは自宅に送り、家族がいない場合はこちらで保護しようとなった
交通がマヒしているのは避難しながらみていた
公共交通機関のマヒが容易に考えつく程の歩行者の多さにビックリした
車も人も無法地帯
信号の大切さを実感した
普段なら5分くらいでつく場所も20分もかかった
幸い私が送った人達は家族が無事で避難所まで送っていった
急いで職場に戻ってスタッフを待った
そしたら
避難場所を提供してくれた居酒屋の店長さんが大量のおにぎりを持ってきてくれた
きっと今日はご飯が食べられないだろうからと握ってくれた
凄く嬉しくて涙が出そうだった
2個もらったから息子と食べようと思ってラップに包んでバックに入れた
スタッフは全員が戻るには時間がかかるから着いた人から解散することになった
急いで家に帰って玄関を開けると目の前には冷蔵庫が立ちはだかった
倒れていないから一安心
どけて部屋に入ってたまたま前日に購入した防災リュックとペットボトルの水を持ち、寝室から持てるだけの布団と毛布とオムツを持って車に突っ込んだ
それから息子を迎えにいった
あの交通状態なら普段の道は通れないと思って田圃道をいった
道はデコボコ一部陥没真っ暗闇
やっとの思いで保育園がある住宅地についたら電線が切れて垂れ下がってるし
道路には窓ガラスやその枠が散乱してるし
歩道は滅茶苦茶
保育園の前に着くと避難場所がかかれていた
津波の被害はない場所だったけど、1kmもない先まで津波が来ていたことを後で知ってゾッとした
避難所に行くと門前で帰された
定員オーバーしているからと
子供を迎えに来たことを伝えてなんとか入れた
体育館はまっくらでどこに誰がいるか全くわからなかった
子どもの声をたどってなんとか見つけたら息子はニコニコ抱きついてきた
1人だけ泣かずに泣いている子がいると頭をなでて寄り添っていたらしい
地震の時は爆睡していたみたい
起きなかったらしい
強者か?
息子と会えたので近所の避難所に行ったらまた定員オーバーで帰された
二カ所もね
帰り道、田んぼのど真ん中で車を停めて仙台市内をみたら真っ暗
高いビルの高さを示す赤いライトが数個見えるくらいだった
北側の沿岸部はやけに明るかったから火災が起きていることが予想できた
仙南も明るかったなぁ
空はいつもの倍以上の星が見れて綺麗だった
不思議とその時、生きていることが実感できて安堵した
駐車場について車中泊を決めた
エンジンを付けっぱなしは勿体ないからエンジンを切ると寒い
携帯はようやく繋がったり途切れたりの状態だった
両親にだけは無事を伝えていたから一安心
数分おきの地鳴りと地震
救助ヘリやサイレンの音
全然眠れなかった
深夜の一時か二時頃に職場のパートさんと連絡がとれてその人の家に避難
朝まで眠れなかった
仕事再開は4日後
でも、翌日から自転車で安否確認に回る
電気復活は3日後
水道・ガスは無事
家財は全部無事
茶碗一つと丼一つが割れただけ
ガソリン、灯油はたまたま満タンにしていたからなんとかなった
幸い震災前日に防災リュックや食料を買っていたから助かった
懐中電灯もなかったから
震災から一週間後には実家に戻って息子を預けた
盛岡は倒壊家屋や地割れは少なく、ガソリンさえあればいつもと変わらない感じだった
息子を置いて仙台に戻るとき、髪をばっさり切ってどんな状況になっても息子を守れるように強くなるって決めた
2ヶ月間
息子と離れ離れに過ごした
震災後は人のつながりを感じたけど、長くは続かなかった
些細なことから色んなことが狂ってくる
疲れてるんだろうなぁ
でもね
震災があったからこその出会いもたくさんあった
大切にしていきたいな
まだ一年
もう一年
私の中ではまだ一年
忘れることは出来ないし
忘れたくない日だけど
思い出したくない日でもある
この矛盾は続くかな
仕方ないよね
震災後二年目突入
どう生きていくか
もっと強くなろう
頑張れ、私